目の前にリンゴがある。あなたはそれを「リンゴだ」と瞬時に認識しますよね。あまりにも当たり前すぎて、何の不思議もないように思えるかもしれません。しかし、もしその認識が、あなたの脳が、過去の経験から「これはリンゴだろう」という”予測”を立て、目から入ってきた曖昧な情報とすり合わせている結果だとしたら…驚きませんか？
「そんなバカな！」と思うかもしれません。しかし、最新の脳科学、特に「計算論的神経科学」という分野で、今最も注目されている考え方こそが、この「ベイジアンブレイン仮説」なのです。これは、私たちの脳を、常に未来を予測し、その予測と現実のズレを修正しながら世界を認識する、極めて高性能な「予測マシン」として捉える、革命的な理論です。
この仮説に立てば、私たちがなぜ錯覚に陥るのか、なぜ思い込みや偏見から逃れられないのか、そしてなぜ統合失調症のような精神疾患が起こるのか、といった、これまで謎に包まれていた多くの現象が、統一的に説明できてしまうというのですから、衝撃的ですよね！
この記事では、この最先端の脳科学理論「ベイジアンブレイン仮説」を、最新の学術論文に基づき、どこよりも分かりやすく、そしてカジュアルに解説していきます。あなたの脳が世界をどう見ているのか、その驚くべき真実を覗いてみましょう！
1. 脳は”受け身”ではなかった！「予測する脳」という大転換
まず、これまでの脳科学の常識をひっくり返す、この仮説の核心からお話ししましょう。
従来の考え方では、脳は、目や耳といった感覚器官から送られてくる情報を、いわば”受け身”で処理するコンピューターのように考えられてきました。光の情報が網膜に入り、それが電気信号に変換され、脳の後ろの方（後頭葉）で処理されて、初めて「リンゴが見えた」と認識する、といった具合です。
しかし、ベイジアンブレイン仮説は、このモデルを180度転換させます。脳は、感覚情報がやってくるのをただ待っている、のんびりした存在ではありません。むしろ、常に「次に何が起こるか」「今見えているものは何であるか」を、過去の経験に基づいて積極的に”予測”しているのです。
脳は、内部に世界に関する膨大な統計モデル（これを「生成的モデル」や「内部モデル」と呼びます）を持っており、このモデルを使って絶えず未来予測を行っています。そして、実際に感覚器官から入ってきた情報と、自らの予測を比較し、その差分（「予測誤差」と呼びます）だけを修正していく。この驚くほど効率的なプロセスこそが、私たちの「認識」の正体だというのです【Friston, 2010】。
2. なぜ私たちは”錯覚”に騙されるのか？
この「予測する脳」という考え方に立つと、なぜ私たちが錯覚を起こすのかが、非常にクリアに説明できます。
例えば、有名な「ホロウマスク錯視」を考えてみましょう。凹んでいるはずのお面の裏側が、なぜか私たちには膨らんで（凸に）見えてしまいます。これは、私たちの脳が持つ「顔は通常、膨らんでいるものだ」という、極めて強力な事前知識（予測）のせいです。
目から入ってくる「お面は凹んでいますよ」という感覚情報（ボトムアップ信号）と、脳が作り出す「顔は凸のはずだ！」という予測（トップダウン信号）が、脳内で激しく衝突します。そして、私たちの脳は、長年の経験から培われた「顔は凸である」という予測の方が、今見えている奇妙な凹んだ顔よりも”確からしい”と判断し、現実の感覚情報をねじ曲げて、「これは膨らんだ顔だ」と認識してしまうのです。
錯覚は、脳のバグや欠陥ではありません。むしろ、脳が過去の経験に基づいて、最も可能性の高い解釈を導き出そうとする、極めて合理的な推論プロセスの副産物なのです。
3. 「思い込み」や「偏見」も、脳の予測機能の産物だった
このメカニズムは、錯覚のような視覚現象だけでなく、私たちの社会的な認識、つまり「思い込み」や「偏見」にも当てはまります。
私たちの脳は、過去の経験や学習を通じて、「〇〇な人は、△△な性格である可能性が高い」といった、社会に関する統計的なモデル（ステレオタイプ）を無意識のうちに構築しています。これが、脳の予測の元となる「事前確率」です。
そして、新しい人物に出会ったとき、脳はこの事前確率、つまり”色眼鏡”を通して、その人を解釈しようとします。もし、相手の言動が、自分の持つステレオタイプ（予測）と一致すれば、脳は「ほら、やっぱり思った通りだ」と納得し、その思い込みはさらに強化されます。
逆に、予測と反する情報が入ってきても、その予測が非常に強いものであれば、脳は「これは例外だ」と解釈したり、情報を無視したりして、「予測誤差」を小さくしようとします。これが、一度形成された偏見をなくすことが、いかに難しいかを示す、脳科学的な理由なのです。
4. 予測が暴走する時、精神のバランスは崩れる
ベイジアンブレイン仮説は、統合失調症や自閉症スペクトラムといった、精神疾患のメカニズムを理解する上でも、新たな光を当てています。
この理論によれば、精神疾患とは、「予測（トップダウン信号）」と「感覚情報（ボトムアップ信号）」のバランスが崩れた状態と捉えることができます。
- 統合失調症: この疾患の陽性症状（幻覚や妄想など）は、脳の予測（事前確率）が過剰に強くなりすぎ、現実の感覚情報を無視して、脳内のモデルが暴走している状態ではないか、と考えられています。誰もいないのに声が聞こえる（幻聴）のは、「声が聞こえるはずだ」という脳の誤った強い予測が、実際の聴覚情報を圧倒してしまうため、と説明されます【Fletcher & Frith, 2009】。
- 自閉症スペクトラム: 一方で、自閉症スペクトラムの特性（感覚過敏や、変化への強いこだわりなど）は、逆に脳の予測機能が弱く、感覚情報の方を過剰に重視してしまうためではないか、という仮説があります。予測がうまく働かないため、一つひとつの感覚情報が、生々しく、強烈に感じられてしまう。だからこそ、予測可能で、変化のない、常に同じ環境を好むのではないか、と考えられているのです。
この視点は、これらの疾患を「脳の異常」としてだけでなく、「世界を認識する仕組みの違い」として捉え直す、新しい治療や支援のアプローチに繋がる可能性があります。
結論：あなたは”世界”を見ているのではなく、あなたの脳が作った”予測”を見ている
ベイジアンブレイン仮説が私たちに突きつける、最も根源的で、少しゾッとするような結論。それは、私たちが「客観的な現実」だと思って見ているこの世界は、実はあなたの脳が、過去の経験に基づいて作り出した「最高の推測」であり、「精巧な予測モデル」に過ぎない、ということです。
脳は、限られた感覚情報から、最も”ありえそうな”世界を再構築し、それを私たちに「現実」として見せてくれています。そのプロセスは驚くほど効率的で、私たちが日々スムーズに生活できるのは、この驚異的な予測能力のおかげです。
しかし、その予測が、時には私たちを錯覚に陥らせ、頑なな思い込みに縛り付け、さらには精神のバランスを崩す原因にもなり得る。
この脳の仕組みを理解することは、自分自身の認識の”クセ”を自覚し、より柔軟に、そして賢く世界と向き合うための、第一歩となります。「自分の見ている世界は、絶対的な真実ではないのかもしれない」。そう思うだけで、他人の意見に対する寛容さや、新しい知識への好奇心が、少しだけ湧いてきませんか？
あなたの頭蓋骨の中にある、この驚異の予測マシン。その不思議と可能性を探る旅は、まだ始まったばかりなのです。
